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2011. 05. 31  
いざ住むところを決めては見たのですが、どうやって子供を小学校に行かせるのか、どうやってスクールバスに乗せるのかなど、まったく手探りではじめました。
子供にとっても迷惑な話だったでしょうね。
まった英語が話せないのに、現地の小学校に入れられて、バスに押し込められて通うわけですから。
本当にまったく子供たちは英語が話せなかったので、苦労したと思います。
長男は優しいのであまり文句をいいませんでしたが、家内がお弁当を届けに行った時は、長男だけクラスの後ろで別個に自習させられていたそうです。
英語がわからないから、授業に入れないんですよね。
屈辱的だったと思います。


でも、1,2ヶ月もすると、長男は運動が得意だったので、クラスにも溶け込んで、楽しくやっていました。
日本人でソロバンも習っていたので、途中から先生に代わって計算の監督とかしていました。
日本語で話す機会は格段減って帰国してから大変でしたが、アメリカでの学校生活は自由で楽しかったそうです。


長女は、もともと自己主張が激しく、アメリカ人のような性格でしたので、なじんでました。
友だち相手にも、
「No!!」
といえる性格でした。
「隣の女の子が試験中ん私の答案を覗き見るから、写さないで!と怒ったんよ」
と話をしていました。


一番下の娘は、幼稚園に入っていましたが、園では一言もしゃべらなかったそうです。
日本に帰ってきても、やはり1年間は一言もしゃべりませんでしたが・・・


とにかく、子供たちが意外と早くアメリカになじんでくれたので、僕も気兼ねなく研究に没頭することができました。


家内は、アメリカの空気があっていたのか、英語もしゃべれないのでに、車であちこち出かけていました。
僕以外は、アメリカをエンジョイしていましたね。


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2011. 05. 28  
今日は、長女の中学校の文化祭でした。
僕は、「お父さんと娘の焼くたこ焼き」を手伝ってきました。
200~300個は焼いたんじゃないでしょうか?


さて、ニューヨークのボス(ロナイ教授)から「うちに来ないか」と誘われたのですが、海外生活がどんなものかわからず不安でした。
収入、住むところ、車、子供の学校、英語・・・・
考えればキリがないのですが、何もかもが不安でした。


とりあえず、一度、視察も兼ねて家内と二人でニューヨークのボスの研究室にインタビューに訪れました。
5日間くらい滞在したのですが、インタビュー1日(今までの僕の研究内容のプレゼンテーションやほかのメンバーとのディスカッションなど)と住居探しなど、毎日、バタバタと廻っていました。
しかし、ニューヨークは日本人の僕にはやはり物騒のように思われました。
研究室が、98丁目にあり、ハーレムの入り口にありましたし。窓の外はすぐそこがハーレムでした。
「2年前には発砲事件があった」
という話も聞きました。


住居については、最初はハドソン川対岸のニュージャージー、フォートリーというところにほとんど決めていました。
そこは日本人も多く住んでいるし、日本系のスーパーマーケット(ミツワスーパー)もありました。
しかし、研究室まで実際に通勤してみると、物騒なところを通るし時間はかかるしで結局やめて、またほかのところを探しました。
結局、マンハッタンンのもう少し北に行ったところにウェストチェスター郡というところがあるのですが、そこのタカホーに2ベッドルームのアパート(日本でいえばマンション)に、結局決めました。
タカホーという名前は、かつてそこに住んでいたタカホー族というインディアンの名前から付けられたらしいです。
もう少しかっこいい名前ならよかったんですけど・・・
家賃はというと、月2000ドル(当時のレートで25万円)でした・・・・


安全を買うとはいえ、あまりに高いですよね・・


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2011. 05. 15  
久しぶりにこのテーマを再開してみようと思います。
あまりこのテーマを待っている人がいるとは思いませんが、書き始めたからは完走しないといけませんしね。


さて、大学院は通常、4年間在籍します。
しかし、生化学教室はその密度も濃厚(朝9時から夜1時まで働くわけですから・・)ですので、大体、3年間で十分な成果がでます。
そのため、3年間で卒業するのが慣例になっていました。
僕も3年間で終わることになったのですが、残り半年になってわかった新たな発見が心残りで、どうしようか迷っていました。
しかし、迷っていたのは僕だけで、菊池教授は、
「来年も、夜来てから仕事するんやろ?」
とおっしゃられ、結局、臨床に戻ってから留学するまでの1年間、仕事が終わっては夜、研究室に来て実験をしていました。


その時の勤務先は、東広島の井野口病院だったのですが、院長、外科部長の皆さんが、夜に実験に行く僕にいろいろ配慮してくださり、何とか1年間の間に論文を仕上げることができました。
それでも、朝6時に家を出て、戻ってくるのが夜6時。
それから研究室に行って、家に戻ってくるのが夜の2時とかになりますから、結構しんどかったですね。
体重も、9キロ減りました。


研究を続けるとともに、留学先も探していました。
がんに関係する研究で、世界のトップレベルの研究室。
できればアメリカで。

その条件を満たす研究室にメールを出して、その返事を待つ。
そういう生活を続けていたところ、ある研究室から
「うちに来て研究したらどうか」
とメールがありました。
それが、留学することになるRonai(ロナイ)の研究室だったのですが、ロナイはその当時、世界に売出し中の研究者で、僕にとっては、思いもかけない誘いでした。
給料も、当時のレートでは年間500万円。
ねがってもない話でした。
ただ一つの問題を除いて。

実は、そのメールが来るわずか半年前に、ニューヨークがテロに襲われていました。
そう、ロナイの研究室は、ニューヨークのマンハッタンにあったのです・・・・


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2011. 02. 09  
2月になって、手術は一段落したのですが、研究会など行事が立て込んでいます。
インフルエンザにかかる人も周りにちらほらいますので、僕も体調を崩さないようにしないと。
医者になってから、体調不良で外来、手術を飛ばしたことのないのが僕の自慢ですから。


さて、前回は大学院で研究する医師の生活についてお話ししましたがどうでしたか?
真面目に研究をしている医師の生活は苦しいものです。
しかし、それくらいやらないといい結果は出ない。それもまた事実です。
しかも、一生懸命やったからといって、絶対にいい結果が出る保証もない。
走ったからといってゴールに着くかどうかわからない。でも、走らないと永遠にゴールにたどり着かない。
そういう生活が大学院の3年間続きました。


「A32は脱SUMO化酵素である」という結果がパソコン上にポツンとでてから、僕は何分間かパソコンの前でボーっと考えていたと思います。それは、この結果が、自分が追いかけていたたんぱく質A32の「何か足りないもの」を埋めてくれるパズルのピースのような予感がしたからです。

SUMOというものは、この少し前くらいから盛んに研究が始まっていたたんぱくですが、これを少し解説すると・・・
たんぱく質は、その細胞の状態に応じて新しくたくさん作られたり、たくさん壊されたりすることで細胞内の量を調節します。
また、必要に応じて細胞内の欲しいところに運ばれたり、不要であれば他の部分にまた運ばれて行ったりもします。
この、「量的なバランス、局在的なバランス」を調節するためには、どうすれば効率がいいのか?
例えば、大規模災害が起こった時の交通整理のように、予想外の出来事が起きた時の仕分けを、その瞬間瞬間にしなくてはいけない。そんなものなのですが・・・


大規模災害が起こって大勢の患者さんが運ばれてきた時、病院ではまず、患者さんを「重症」、「軽傷」、「最重症」などの印をどんどん付けて行きます。そして、その優先順位に従って治療を行っていきます。
簡単に言えば、優先順位ごとの付箋を貼るようなものなのですが、これにより効率よく患者さんを救命することができます。
細胞の中でも同様で、急な事態ではたんぱく質そのものの形を変えたりするよりも、「このたんぱく質は要らない」とか、「細胞内の他のところに運んでいって」という目印=付箋のようなものをつけた方が効率的なのです。
そして、SUMOは、その目印タンパクの一種で、たんぱく質にくっつけられたりはがされたりすることで、そのたんぱく質の運命を決めるとされていましたが、その当時はまだよくわかっていませんでした。
ましてや、僕のやっていた領域では全く報告がなかったのでした。


その当時、インターネットの文献検索でSUMO(スモ)をひくと、「スモウレスラーが何とかかんとか・・・」という論文が出てきたりして、びっくりしたのを覚えています。


なにはともあれ、3年で終わらせようとしていた大学院での研究は、この新しい発見によって、僕自身に火が付いて、そこから猛烈に新しい分野での研究が始まりました。
その研究室ではまだ誰も手をつけたことがない分野でしたから、僕が自分でモデルを考えたり実験計画を考えたりして、毎日があっという間に過ぎて行きました。
研究を始めた当初とまったく逆の生活になりましたが、自分が世界の最先端にいることが実感できた一瞬でした。


しかし、卒業まではあと半年。
来年からは外科に戻るし・・・
どうしようか・・・
二兎追うものは一兎をも得ず
そんなことわざが脳裏をかすめました・・


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2011. 02. 05  
野球やサッカーのキャンプも始まり、もう少しで春が来る、というところでしょうか。
いつもこの時期はカープに期待するのですが、今年はどうかなあ。
新外人の評判もいいし、せめて3位にはと期待しています。


さて、大学院での苦闘の日々を6回に渡ってつづってきましたが、研究はさておき生活面ではどうだったのか?
これは、大学院生、特に研究第一に生活している医師ではほぼ同じだと思うのですが・・・


まず、給料の面では・・・
収入の中心が育英会の奨学金(月13万円)になります。
これは無利子なのですが、きちんと返さなくてはいけませんから、3年分(13x12x3=468万円)、今でも返していますよ。
さらに、大事なのがアルバイト。
でも、アルバイトに行かれる日が週に2日(半日x2回)なので、しれています。
親子5人が、ぎりぎりの生活が出来るくらいでしょうか。


バイト中心の大学院生もいますので、そういう人は優雅な生活を送っていましたが、やはり研究業績は芳しくない人が多かったですね。
何かを犠牲にしないと、研究って成り立たないものです・・・


子供は二人が幼稚園に行っていたので、自転車の前と後ろに子供を乗せて、幼稚園まで毎朝送っていました。
御幸橋を渡るのが結構しんどかった・・・
架け代わる前の御幸橋は、ちょっとした登りがあって、勢いをつけながら渡ったものでした。


自分の研究生活は、朝9時に研究室に行って9時30分から研究スタート
7時過ぎに一度夕食を食べに家に帰って、9時には研究室に戻る
夜の1時に帰宅
こんな生活が、月曜日から金曜日でした。
常に睡眠不足で、ナポレオンの3時間睡眠は別に不可能ではないなあ、と実感していました。
いつもぎりぎり。体力も精神的にも、経済的にもぎりぎりな生活でした。


どうしてこんな生活が3年間続けることが出来たのか?
それは、教授自身がその生活をずっと続けていたからです。
教授が早く帰るんだったら、僕たちも早く帰れたのですが、教授自身が毎日手を抜かない生活をしていたので、僕たちも
「なんとかやらんと」
という気持ちでした。
眠くなったら研究室の床に寝る
そうすれば、1時間も経ったら冷たくて自然と目が覚めます
そういう生活でした。


それだけやっていれば、自然と「自分たちが世界のトップレベルにいる」と自信をもって言えるようになります。
そうして3年過ごすころに、
「自分の実力を世界で試してみたい。自分がどれだけやれるのか極限まで頑張ってみたい」
と思うようになりました。

今思えば若くて体力あったなあ・・
今ではとてもできそうにない・・
実際、その研究室に入ったものの、続かない医師は結構いました。


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乳がんのことだけでなく、思い浮かんだことをつらつらと書いています。
更新は不定期ですが、暇な時に見に来てください。

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